酒井先生の「言語の脳科学」

今年ほど、頻繁に上京している年も無いかもなあ……
そのうち2回が、Hippo関連の講演会だ。

10月26日に行ったのは、酒井邦嘉先生の講演会だった。
今回は、場所がすごいよ。東大駒場校舎の教室だ。
酒井先生が、東大の先生だからそうなんだけどね。

2週に渡って行われた講演会、内容は別なのだが、2週続けていけるほど豊かではない私だ。
1週目だけ参加して、2週目はネット中継で見ることにした。

ところが、宵っ張りの私は、上京前日だと言うのに、フォト像に投稿した写真に着いたコメントに返信したり、長いメルマガを読んだりして、それでもいつもよりは早く寝たつもりだった。

夜更かしした翌日は、午前中は快調に動けるんだけど、午後、昼飯を食うと、とたんに脳の動きが鈍くなる。デジタルレコーダーで、講演の内容を録音したのだが、8分ほどイビキが録音されていた。

そんな訳で、なかなか講演の内容については、気持ちが乗っていかなかったのだが、デジタルレコーダーのあまり良くない録音を聴いているうちに、なんとか思い出せたこともあり、最後には結構面白いこと言ってるんじゃないかとさえ思えてきた。

実際、一番面白いと思ったのは、「人間の言葉は1種類しかない」ということ。

これは、Hippoの教材と言うか、メンバーの体験談を各国語に訳したものなのだが、「オドロキ、モモの木、ヒッポの記」と言うところで、しきりに言われている。underlying universal human languageというやつ、「それぞれの言語の基礎になっている人類共通の言語」とでもいうのだろうか?それのことのようだと思った。

実は、私、これの存在について、疑っていた。「そんなもん、見たことも聞いたこともない」ってなわけである。

ところが、酒井先生の講義の中で、これがいともたやすく説明されていたのである。しかも、冒頭の方で。

「宇宙人が、地球の人類の言語を聞いたら?」という問いかけで始まったその部分の答えは「人類の言語は、表面上の違いは別として、一つしかないことが分かる」というのだった。

Hippo的な考え方、そして、5月末のスザンヌ・フリン博士の講演の中でも言われていたそれは、簡単のことだった。文法上、語順の違いこそあるが、「わたしはーたべる」「たべるーオレンジを」みたいな簡単な組み合わせを追加していけば、どんなに複雑な就職も可能で、それはどの言語にも共通だというのである。

これには、目からウロコがボロボロというより、目の前に築かれていた巨大な壁が、ドミノ倒しのように崩れ去った感じがしたのである。

そういえば、Hippoでは一つのストーリーをいくつもの言語で聴くようにしている。欧州主要言語ならともかく、たとえばロシア語でも、なんとなくあの音は、「剣道は日本のフェンシングみたいなもの」と言っているとわかるのは、場面が同じということもあるのだが、ケンドウ(ロシア人の発音は、"ケンダー"なのだが)という言葉を手掛かりに、周囲の音を聞き分けていくと、「ナズィバイツナイツ」は、「…と言われてる」か「…のようなものだ」という意味ではないかの見当がついてくることに気がつく。

なぜかと言えば、同じストーリーを聞いているわけだから、言語が違えば、趣味の話をしているのに、その単語がそこの家の動物の種類の話で使われることはない訳で、そんな事があったら、そもそもその人が話す言葉自体が意味をなさなくなるのだ。つまり、ロシア語といえども、英語やスペイン語のように、修飾する言葉は、常に修飾されることばのそばに控えており、「わたしはーたべる」「たべるーオレンジを」みたいに、組み合わせて使われているはずなのだ。それゆえに、知っている言葉の周りの音を注意深く聞けば、大よその見当もついてくるのだ。そして同時に、修飾する言葉は、される言葉から一つ枝分かれさせていくのだ。

正直な話、私はこの「人類共通の言語の基本構造」というやつに懐疑的だったのだが、こう言われれば、なるほどこれは解り易い。なぜ、これに懐疑的だったのか?とさえ思うくらいだ。同時に、酒井先生やフリン博士、そして榊原氏も、これを主張していたということは、この人たちに影響を与えていたチョムスキー氏の説にこれと同様のルーツがあると思えてきたのである。

途中居眠りしながらではあったものの、こんな風にこの講義は面白かったのだ。