テレビ

panadero2005-06-26

昨日(6/25)、BS-2で「音楽ドラマ『シューベルト』-音楽に生きる-」を見ました。なかなかの力作だと思います。シューベルトの歌曲を紹介しながら彼の31年の短い生涯を描いた舞台劇です。

見所は、やはりファンのサイトでも「圧巻」と紹介されていた姿月さんの独唱した「魔王」でしょうね。本来男声バリトンの独唱で演じられる曲ですね。女性の彼女が歌うには、まあ転調はやむないところでしょう。それはともかく、この曲の解釈が「目からウロコの落ちる」思いでした。ゲーテの詩に曲をつけたこの曲は、歌詞の字面そのままに解釈すれば、「夜道を馬で旅する父子の子が、魔王の影に怯え、父親の励ましも虚しく、怯えて死んでしまう」という、少しの「救い」も何にも無い内容なのですが(中学生時代の私にはそう感じた)、そこは詩人の表現なのですから比喩というものが存在します。

子供には見える恐ろしい魔王が、大人には見えない。子供の本当の悩みの正体が、大人には見えない。子供が、あんなに怯えて、苦しみを訴えているにもかかわらず、大人は理解してくれない。「世代間の断絶」、とても心理的なことがテーマであると、この音楽ドラマは訴えています。それにしても、子供には「魔王の正体」が見えているのでしょうか?「魔王」の歌詞の中では、知らないまま、子供は息を引き取りますが、「シューベルトには見えていた、最初は気がつかなかったのに、この曲を発表するときには見えていた」と解釈しています。

原作は、ひのまどかの『シューベルト 孤独な放浪者』。クラシックの作曲家の物語シリーズをたくさん書いている人らしいです。残念ながら、「はまぞう」で検索しても画像がありませんが、取り寄せは可能のようですね。

シューベルト―孤独な放浪者 (作曲家の物語シリーズ (5))

シューベルト―孤独な放浪者 (作曲家の物語シリーズ (5))

それにしてもシューベルト像ですが、若くして夭逝した事やテレーゼとの純愛などのせいで、かなり美化されたものが一般に知られていますが、実物はポッチャリした赤ら顔の小男だったようです。たしか、エルトン・ジョンの「僕の唄は君の唄」がヒットした直後、アメリカでは彼の姿は知られていなかったようで、アメリカでも物凄く美化されたシューベルト像が出回っており、そのイメージが重ねられたようです。その原因は、バーニー・トゥーピンの書いた「僕の唄は君の歌」の歌詞とレコード会社のイメージ戦略のせいだとのこと。

満を持して、アメリカの観衆の前に現れたエルトン・ジョンは、ローリング・ストーンズが大好きな「ポッチャリした赤ら顔の小男」だったと言うオチがあるのですが、これは美化されたシューベルトではなく、実際のシューベルトの方に似ていたというわけですね。

一方、主演の姿月あさとさんの演ずるフランツ・シューベルトは、「図々しさのない、ちょっと遠慮気味な、気持ち良く耳から耳に通り抜けていく楽曲の中に、強さを秘めている」というイメージだそうですが、私の見た感じ、女性が演じる男性だから当然かもしれませんが、いかにも中性的な魅力があり、その上、内気でどこか大人になりきれていない。言葉は悪いかもしれませんが、鼻の上に半掛けした丸いレンズのメガネなんか見ると「萌え系」のマンガに出て来る男の子みたいに見えました。これは、狙ってやってるんだろうなぁ…この劇の意図する現代に生きる若者と共通する悩みを演じるのに、あまりにハマりすぎている。それでも、宝塚で男役をやってたこの人が、男の役者の中に混じって男役を演じると、えもいわれぬ可愛いらしさがにじみ出ていて、ファンになっちゃいそうです。