追悼、Kさんの思い出

引き続き傷心の私は、今日もまた、フラメンコについて訳の分からないことでも書こうか、それとも読了したばかりの「信長の棺」の感想でも書こうかと思案中、その前にメールのチェックをしておこうかとOutlookを立ち上げてみたら、「訃報」が届いていた。メールをくれたのは1期上の先輩のT氏、死んだのは同期の女性Kさんである。

今晩はKさんへの追悼の意味も込めて、Kさんとの思い出を(あんまり無いんだけど)、できるだけ思い出して書いてみたい。
そういえば、昨年11月下旬のサークルのOB総会でも会えなかったなと思った。でも、結婚後の女性は、なんだかんだと家庭の事情に縛られることも多いので、大方そんな理由だろうと思い込み、あえて理由も尋ねなかった。その彼女が、まさか病死とはねぇ……しかし、メールには病名までは書いていない。

私がOB総会の会場に到着する前に、同期の女性たちと色々な情報交換をしていた福島のM君なら、何らかの情報を得ているかもと思い電話してみると、新年会の酒を喰らって寝ていたM君は、寝ぼけ声ながらも驚き、彼女が「乳がんを病んでいて、どうも具合が良くないらしい」との情報を得ていた事を話してくれた。

乳がんかぁ……子を産むために男より様々な器官を抱えている女には、それだけ余計なリスクは付き纏うというわけだ。女は男より長生きする生き物だとばかり思っていたが、いざ死なれてしまうと、男も女もまさに儚きものなのだよなぁ……。

Kさんと初めて口をきいたのは、大学1年の時の香原志勢(ゆきなり)先生の「自然人類学」の初回の講義だった。後にNHKの市民大学講座に出演されたのを見て「これほど面白い学問だったのか」と後悔した、香原先生の講義だったが、当時はサークルの先輩から教えていただいた「単位の取り易い講義のリスト」に入っている科目の一つに過ぎなかった。そういう情報は、いろんなサークルにも伝わっており、5月初旬までは、先生の講義は満員御礼だったのである。

入りきらないほどの学生であふれた4号館の大きな講義室は、どこか見覚えがあるぞと思ったら、私の受験会場だった部屋で、緊張で張り詰めた受験のときとは違って、遊び着に身を包んだ学生でむせ返る講義室は完全にだらけきった雰囲気である。講義室に入る直前でKさんの姿を見かけたので、声をかけた。

思えば、あのサークルに入部して、初めて声をかけた女性だったかもしれない。新入生同士の顔合わせは済んでいたが、言葉を交わしたことは無かったのである。いろんな連中に聞くと、入部当時の私は、同期とは思われていなかったようだ。まあ、1浪だからしょうがない。でも、同期で残った男の半数は1浪だったのにさ。

Kさんとの会話はたわいも無いもの。「どこに住んでいるの?」「それって何線?」「出身校は?」すべて顔合わせのときに自己紹介したことばかり、でも、その情報と顔が一致していなかった。当時の彼女は、西武線を散々乗り換えてようやく辿り着く所に住んでいた。自宅からである。高校は女子高だったせいか、男との会話に慣れていないようだった。どうも表情が読めない。顔が赤くなってきたので、なんか失礼なことを言ったかもしれない。それに私自身エライ緊張していたかもしれない。

その後、我々は別々の相手と恋愛をし、(などと言うとカッコイイが、私の場合は片思いだった)サークルの執行部の3年の頃、妙に私に懐き出した。しかし当時の彼女には、付き合っているはずの男が……これは、公然の秘密だった。聞くところによると、私のことを「るまー」と呼ぶ。私の苗字にこの「るまー」をつけて呼ぶと、「…だるま」になるのが面白いというのだそうだ。「なんだよ?」ってのが正直な感想。

ただ、この頃の彼女、ちょっと様子が変だった。まあ、感情表現がへたくそなのは元々で、成績は悪くないのだが、話し言葉になると言葉が素直に出てこない様子で、例によって顔が赤らみ、時には涙が出そうな表情になる。情緒不安定というほどではないが、私を「るまー」と呼んで面白がっている一方で、思っていることが上手く言い表せないで苦しそうだった。

後から思えば、当時の彼女の相手との関係は……、詳しくは書けないが、まあ相手の男が悪すぎたとだけ言おう。人が悪いというわけじゃない。我々男連中などは、毎晩のように一緒に飲み歩いていた。話術が巧みな人で、自分ばかりしゃべっているように思うが、実はそうではない。非常に聞き上手なのだ。気持ちを上手く言い表せない女の子と聞き上手な男、組み合わせとしては悪くない。ただこの男、どうもそういう相手をたくさん持っていたようなのだ。まあ、その関係も我々が4年になるまでには、消滅していたのではなかったかと思う。

前述の通り、彼女の成績は悪くは無い、就職は早々に決めてきた。反対に、マンジャーレ、カンターレ、アモーレのキリギリス生活だった私に、社会の門戸はなかなか開いてくれなかった。12月の初旬になって弱小専門商社への就職を決めた。まあ、最後の定期演奏会の前には決めねばって言う焦りから、後にこれが私の人生を狂わせたと思ったけど、大学の同期の殆どが、後に転職しているのを見ると、みんなそれぞれに試行錯誤の人生を歩んでいるんだなと思った。

彼女の結婚は早かったと記憶している。同期の男の最初の結婚式のときには、彼女は既に結婚していたからだ。ところが、子供が出来たのは随分後からだったと聞く。麻雀の席でそれを聞いたとき、いずれにしても目出度いとは思った。

商社を退職した私は、故郷に帰った。その年の秋、ウチの店の切り盛りをしていた叔父が死んだ。その時、古いご友人たちへの連絡は、年賀状の住所と電話番号が頼りだったのを思い出した。「自分がもしこんな田舎で死んでしまったら、仲間はおそらく誰も気づいてくれないだろうな」という不安から、私は年賀状だけはマメに書くようにした。

以来多くの友人達から返事を貰っている。Kさんからの年賀状は、最初は子供の写真を貼り付けたものが多かった。短信はあまり書いてもらった記憶が無い。最近になって、絵柄が子供ではなくなったのを見て、子供たちも大きくなってしまったんだなと感じた。

まあ、彼女の死が幼い子供たちを残してのものではなかったことは、せめてもの救いだ。ただ、それでもあまりにも速すぎる。子供を育て上げたら、次はようやく夫婦の時間が楽しめるはずだったではないか。それに、自分の意思表示が苦手な彼女は、死ぬ前に自分の言いたいことが充分に言えたのだろうか?今年の年賀状には、珍しく「今年も頑張りましょう」などと書いてあったのを見て、ふとそんな事を考えてしまった。

かくして、新しいネタを得た、私の傷心の日々は、これからも続くのだ。