叔母、永眠す

朝から、電話がけたたましくなるので出ようとすると、オフクロの方が早かった。出た直後の挨拶のすぐ後、驚きとため息、良くない知らせであることはすぐ分かった。
問題は、誰か?だが、予想とは違ったのだ。叔母は、母方の姉妹の長女で母とは10歳ぐらい年齢が離れている。90歳だから、誰よりも危ないと思われても仕方ない立場だったのだろうが、娘(私にとっての従姉妹)のYさんによれば、前に入っていた特老ホームから現在のところに移ってからは、非常に加減が良いと聞いていたので、ついついこの最高齢者の死の可能性を除外してしまっていた。

10歳も年が離れていたから、母にとっては親代わりも同然。女学校を出た後、東京でバスの車掌をしたことがあるらしく、初任給で、当時尋常小学校に入学した母のために本革のランドセルを買って送ってくれたという。貧しい時代の日本の田舎町の学校でこんな物をもっていたのは限られた生徒だけだったとか。母は、とにかくこれがとても嬉しかったらしく、叔母の話をすると、必ずこれが出る。母が買ってくれた本革のランドセルをあまり大切にしなかった私には、耳の痛い話だった。

叔母は、都会へ出たものの、結婚はやはり地元の人としたらしい。白鳥が飛来する町の小さな駅のまん前の、当時は宿屋だったのか、下宿屋だったのか、とにかく、子ども時代の私には、暮らしている人数に比して、不釣合いなほどに広い叔母の家は、異次元の世界のような気がした。というのも、私が訪れるようになった頃には、駅前でお菓子やラーメンやカキ氷を食べさせる店に変わっていたから、奥のほうのたくさんの部屋は、ただ無駄に空いていたのだった。

そんな叔母の家だから、泊まった時などは、夜トイレへ行くのは人気のない奥の部屋の方だったので、ちょっと怖かったのを覚えている。母の実家は、叔母の家から駅を挟んですぐのところにあるのだが、田舎町の駅の周辺は、駅の片側だけが開けて、迂回路はかなり遠回りになる。母の実家に行くのだから、当然、母と一緒に叔母の家にも行ったりするのだが、小学校3年の何かの折、なぜか私は一人で叔母の家に泊まる事になった。

夕飯を食って、TVを見ていたのを覚えている。TBS系の番組で「ベストテン」の前身となるような歌番組を見ていたような気がする。デビューしたての森進一や次々とオリジナル曲を発表する加山雄三、女王・美空ひばりなどなど、考えてみれば随分豪華な歌番組だったと思う。それが多分8時台の番組だった。

随分前に連れ合いを亡くして、既に老境に差しかかりつつあった叔母の夜は早い。当然、叔母の習慣に従って、布団が敷かれて、おやすみなさいという事になるのだが、こんなに早く寝ることなんて、その当時の私にはあまり無い事だったのだろう。眠れないのである。むろん、枕が変わったせいもあるのだろう。とにかく、眠れない。

母の実家で寝るのだったら、同じ年齢の従兄弟がいたので、草臥れ果てるまで遊んだり、読める限りのマンガを読んだり、とにかく楽しく過ごせたのだが、叔母の家では消灯時間である。

田舎町の駅前などというものは、日が暮れてしまうと、ただの町外れでしかない。新宿や渋谷の駅前などとは違う。駅に到着する客車は数時間に1本、その他は貨物列車が通過するだけ。真っ暗な部屋の慣れない枕で先に寝てしまったおばの寝息を聞いていると、とても孤独な気持ちになってしまい、小学校3年の私は、ついつい「ぐすん、ぐすん」とべそをかき始めてしまうと、止まらなくなってしまった。

あまりにべそをかき過ぎたので、寝ていたはずの叔母も気がついて、私の布団に足を入れてくれた。すると、どうだろうか、妙に安心してしまった私は、それからまもなく眠りについてしまったのだった。翌日は何もなかったように、2人ともしていたが、私にはそのことが30年近く過ぎた今も忘れられないのである。

叔母ちゃん、さよなら。叔母ちゃんのラーメン、おいしかったよ。支那竹が好きだなんて、自分も安上がりなヤツだったけど、ラーメン屋をやめた後も私や母が訪ねると、店やもんのラーメンを注文してくれたりして夕飯が食えなくなったけど、叔母ちゃんの気持ちは伝わってきたなあ。病院付属の老人ホームでの取り扱いは酷かったねえ。板入りのミトンの手袋なんかさせられたら、ナースコールだってできないじゃないか。あごの骨が外れたときも、外しっぱなしだったし、あんなところは出て正解だったよ。っていうか、叔母ちゃん、あそこで随分寿命を縮めたよ。でも、最後は家に帰れてよかったね。ゆっくり、お休みください。