詐欺事件の報告

とても悔しい思いをした。善意の人間が、悪意ある人間に対して後手に回るのは常ではあるが、1週間前から企んでいたのではないかと思うと、大いに悔しい。他の人が引っかからないようにするためと、自分への戒めのためにも、ここでヤツの手口を公開する。


朝一番の電話というヤツはどうも苦手である。身内の不幸、商品への苦情、難しい注文などなど、ろくなことが無い。出ようかどうか迷っているうちに、母が先に電話に出た。どうやら注文のようだが、途中から口調が興奮し始める。やはり難しい注文のようだ。


変な注文なら出来れば受けて欲しくないが、母なら多分受けるだろうなと思っていたら、どうやら受けたようだ。


1週間前にも注文をくれた人のようだが、どうも注文の仕方が変なのである。明らかにうちで扱っていない商品までも注文して、「それは扱っていない」といっても、聞き入れてくれないようなのである


嘘を言ってはいけません。ちゃんと調べはついているんですから」だと。


何なんだよ、こいつは。


そんな注文でも母が受けてしまったのは、商人の浅ましさというべきかも知れないが、何しろ大量の注文だし、いざとなれば近所のスーパーで買ってでも持っていこうという考えなのだろう。ただ、何でも揃えてやってしまうと、次からはさらに無理難題を吹っかけてくる恐れがあるので、うちで扱っていないものの中から、ごく一部だけは除いて持っていこうということになった。


昼過ぎに納品に言ったその家は、手入れこそしてなくて荒れ果てているとはいえ、旧家の威厳を備えた構えをしてはいるのだが、何か違和感を感じてしまう。積み重ねられた店屋物の丼、皿、重箱。何が入ってるか知らないが、そこかしこに散乱しているスーパーのレジ袋。そして何より異常と思ったのは、受け取りに出た女主人である。


かなり年配の人なのだが、直毛で長い黒髪。まあ、髪形なんぞは、他人がとやかく言う筋合いではないからどうでもいいが、その女の最も異常な部分はその言動だろう。


女は商品を受け取ると、玄関から奥深く引っ張り上げ、頼んでいたより商品の数が少ないと不平を言い始める。それについて事情を説明するのだが、どうも聞き入れようとしない


その言い方も、「嘘を言ってはいけません。ちゃんと正直に言ってくれれば、穏やかに話し合えるんですから」などと、この時点では未だ普通の調子だったのだが、扱えない商品のことはどうしようもないので説明すると、「嘘をつかないで、ちゃんと知ってるんだから。嘘をつくと生きていられないよ。約束を守って頂戴。注文を受けたら、ちゃんと約束を果たして」と、キィキィ言い始める。


母の話では、「とりあえず、うちで扱っている商品はお持ちしますが、それ以外は遠慮させていただく」と言った筈である。それを言うと、興奮して「それは嘘です。嘘を言うと、この町で生きていけない、そうでしょ?」と訳の分からない言い方をする。第一、そうでしょ…と言われても、嘘ついたって生きてる人間だっているし、それに嘘をついてる訳じゃない。出来ないものをお断りして、商売の機会を放棄しているだけである。それを嘘と言われては……と次第に腹が立ってきたので、少し言い返したら、もう興奮して手がつけられなくなった。あまり興奮したのか、女は言葉を発するときに、鼻水が出て、鼻から鼻くそがぶら下がった。


鼻くそをふき取っている間を利用して、携帯で店に電話して、対策を相談しようとしたが、あいにく母は出かけていない。その間も、興奮して奇声を発する女の声が、携帯を通して、店のパート店員の耳にも届いたらしく、帰ってから事情を聞きたがられた。


とにかく、この女は異常だ。話が通じない。商売の機会は完全に無しにしてもいいからと思い、商品を持って帰ろうとしたら、さらに興奮して、もう手がつけられなくなる。それでも、全ての商品を揃えてきたら金を払ってやるようなことを言うので、一度店に戻ることにして、商品を揃えることにした


だが、それが甘かった


3時過ぎに再度その家を訪れると、状況は一変している。入り口には鍵がかけられていて、声をかけても返事が無い。留守なのかもと思い、入り口脇の台の上に置いておくように言われていたので、そこへ置いて、車から店へ電話をかけた。その間、数分だった。家の玄関に戻りつこうとした時、玄関の鍵が降りる音がした。玄関脇の商品を入れた箱は、家の中に引き入れられている。広そうな家なので、さっき呼んでから出てくるまで時間がかかったのかなと思い、玄関のドアを叩いて呼んでみるのだが、返事が無い。


商品が無くなっているので、家の中にいるのは分かっている。呼び鈴のボタンに気がついたので、何度も押すのだが反応は無し。この時から、どうも邪悪な意図を感じ始めた。それになんだ、これ、玄関の引き戸の鍵に近い部分のガラスが、一度割られた後に、防犯用のガラス破損防止シートが貼られている。前にも、こんなことがあって、トラブルになったのかもしれない。


電話をかけようと思ったが、家の前からかけると、私が電話しているのは見え見えだから、少し時間を置いて家から離れた場所からかけてみた呼び出し音が10回前後鳴った後、受話器が取られたが、「もしもし、もしもし」と私の声を聞くと、すぐに電話が切られた。その後、電話をかけても、ついに出ることは無かった。家にいるのは、これでハッキリしたので、玄関に戻ってみると、玄関の引き戸の前に網戸が締め切られて鍵がかけられてあり、呼び鈴も鳴らせず、引き戸を叩いて呼ぶことも出来なくなっていた。もう邪悪な意図は明白である。


この家の前に、土地家屋の登記のための測量調査士の事務所がある。そこで、この家のことを少し尋ねてみたらビックリ。この女は、たびたびそういう問題を起こしているようなのである。破られたガラスは、その時割って入ったものらしい。


早速店に電話して、交番に連絡してもらった。ただ、警察は民事に不介入のはずだから、あまり期待は出来ない。それよりは、不在を装って、家の中から外の様子を窺っているようなので、この家の全ての窓から死角になる場所で警察が来るのを待ちながら、同時に敵にこちらの情報も与えまいと考えた。その場所は、車庫のシャッターの前しかない。


しかし、これが近所の住人に不信感を与えたようだった。隣接する空き地越しに私の姿を見止めた中年女性が、たびたび私の様子を窺いに来るし、一緒に遊んでいた男の子を家の中に引き上げさせ、部屋の窓から様子を窺うようになった。まあ、警察にはこちらが先に連絡しているし、通報されてもその辺の事情は警察の方でも摺り合わせはしてくれるだろう。ただ、法律に触れるようなことだけはしないように注意した。


パトカーが見えたとき、その家の人間にも分かるように、大きな身振りで、警察官に向かって手を振ってやった。2名の警察官に事情を話して、警察官の方から呼んでもらったが返事が無い。電話も取らない。そこで若い方の警察官が家の周りを回りこんで、中にいる女と接触が取れないかと試みようとした。


中の女に呼びかける警察官の声が家の周りを移動して、ある地点で止まった。どうやら、女を見つけたようである。しかし、実際には女がぶつぶつと呟く声がするだけで、聞こえてはいるはずなのだが、呟くのも止めず、応答もしなかったらしい。


すっかり困りきった警察官は、私にこう説明した。


「商品が確かにこの家の人の手で引き込まれたのは、周囲の状況から明らかだと思うが、あの女の人は、お金を払わないと言う意思を明確に示しているわけではない。ただ人との接触を取らないだけなので、手の出しようが無いのです。今現在の状況で網戸やガラスを破って中に入ることも許されていませんし……」


それを聞いたとき、これは周到に練りこまれた詐欺だと思った。しかも、警察が動きにくいように、金を払わないと言う意思を明確にしない手まで使っている。さらに言えば、朝、注文が来たとき、「今日は来客が大勢あるから」という理由でたくさんの注文をしたのだと言う。少なくとも、その時点では明らかに、我々を引っ掛けようと言う作為があったわけだ。となると、前週に注文を入れて、トラブルも無しに金を払ったのは、安心させるためとも考えられる。しかも、過去にちゃんと金を払った実績があれば、この一度の不払いは単に「支払いの遅延」とも受け取られかねず、そうなると犯罪性は完全に無いことになってしまう。


警察官は、とりあえず一度引き上げて、暗くなって家の明かりがついた頃に訪ねてみようと思うことを提案した。私は、この女の異常さを考えてみても、暗くなってからも明かりが付く見込みは無いと考えて、引き上げるのには抵抗感はあったものの、中に入れない以上、ここにいても現状の打開は望めないと判断した。


警察官は、その言葉どおりに、暗くなってから訪ねてみたらしいのだが、結局、明かりは燈らず、状況に変化が無かったとの事だ。彼もそれでは申し訳ないと思い、身寄りを調べてくれたらしい。それによれば、あの女には兄弟がいて、警察からの話を聞いて、うちに金を払いに来たいと言うのだ。ただ、こういうのは実際に入金するまでは何とも言えないものだ。第一、その兄弟には基本的に支払い義務は無いのだ。警察の前だけ、体裁をつけた可能性もある


警察が、この身内を探し出したのは、おそらくこの不払い事件を刑事事件ではなく、家族間の問題にして解決したという意図が汲み取れる。しかし、現時点でそれは確実に実行される保証は無い。もし、警察が手を引いても金が得られなければ、どうすべきだろう?一応、小額訴訟について、ネットで調べ始めてはいるのだが……