「頑張る」のロンダリング

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

okamiさんのブログに、最近良く話題になっている「頑張れ』と声をかけるのが是か非かという趣旨のことが書かれていた。

つきこさんとこ<Kitchen*diary >のコメントに「がんばってください」って書いちゃったんですが、この「がんばって」っていう言葉、使うの悩みます。

そもそも「頑張る」とはどういうことかといえば、「大辞林」によれば、「 あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する」「自分の意見を強く押し通す。我を張る」「ある場所を占めて、動こうとしない」などと最初のを除けば、あまり良い意味が用意されていない。


大辞泉」も似たような解説なのだが、最初のところが「困難にめげないで我慢してやり抜く」となっていた。


そこで今度は、「我慢」を調べてみると面白い。が、長いのでリンクを貼る事にする。どうも「頑張る」とか「我慢」というのは、リンクの記述の中の「正法眼蔵・仏性」の引用を見ても明らかなように、元来はネガティブなイメージの行為だったようであるのが、なにかのきっかけで「頑張る」も「我慢」も美徳と受け止められるイメージに変貌したようなのである。しかも、正法眼蔵によれば、仏法に背く行為であるのに、何ゆえ「美徳」とされたのだろうか?

これについては、わが出身校のチャプレンで日本の宗教をよく研究していた人が、校友会の会報に書いていたのを思い出した。あいにく正確には思い出せないのだが、こう言ってたと思う。


たしかに「我慢」は仏法に背く行為なのだが、中国からの渡来僧や帰国した日本の留学僧達が、日本で仏教を教えると、学僧たちは実に良く吸収してくれたのだそうだ。ところが吸収が良い反面、彼等のそれは殆ど修行もしないで身についた知識に過ぎない事に気がつき始めたのだそうだ。とはいえ、仏法に背くほどの厳しい苦行をさせる訳にもいかないから、「最低限、座禅を組んで瞑想するぐらいの我慢はしろよ。」という事になったらしいのである。


さて、ここからは私の勝手な想像だが、「我慢」や「頑張る」の「言葉のロンダリング」は、それだけに留まらなかったのではないだろうか?戦国から江戸期に至るまでの武家社会では「清貧』が尊ばれた事もあったし、百姓や町人には「倹約令」まで出して、「我慢」や「頑張り」を奨励したし。


明治以降は、徴兵で集めた農民や平民を武人に仕立て上げるために、武人の精神論を叩き込んだ訳だし。大戦中は、非戦闘員までも巻き込んで、「欲しがりません、勝つまでは」と我慢し、「行くぞ一億、火の玉だ」と徹底交戦の「頑張り」を要求された事により、「言葉のロンダリング」も行き着くところまで来たという感じがする。


かくして、「我慢』「頑張る」の意味は、本来の意味とは正反対の「美徳敵行為」としての意味が、辞書の最初の解説に登場し、2番目以降はそれとは正反対の解説が並ぶという奇妙な現象が見られるようになったのだと、私は想像します。


それにしても、人を元気付けるときにどんな言葉をかけるべきか?

ロバート・ホワイティングの「菊とバット」に、ある日本人通訳が不振に悩む外国人選手に「頑張れ」の意味で"Do your best!"と声をかけたところ、「俺はいつもベストを尽くしてるさ、これ以上何をしろと言うんだ」と怒鳴りつけられたというエピソードがあった。こういう場合の声のかけ方は、とても難しい。


「辛いだろうけど、ここで挫けたら、何にもならないぞ。負けるなよ」ちょっと長めだが、そんな言葉をかけると、相手のほうから「ま、頑張るしかないか…」と返ってきそうな気がする。そうすると「頑張りすぎてもいけないから、時々は愚痴を言いにこいよ。ちゃんと聞いてやるからさ」となるわけだ。


ははぁん、どんな事でもそうだろうけど、要は話の持っていき方だね。最初から「頑張れ」では、そこで言葉のやり取りが止まってしまうんだろうね。「頑張り」の必要なやつにこそ、「頑張るぞ」を言わせるように持っていけば、成功なんだ。気を付けよっと。