映画「武士の一分」の感想

話はちょっと前の事になるが、先月29日の日曜日、日帰りで東京に行ってきた。5年度ごとの大学の卒業生を対象にしたホームカミング・デイのパーティーがあると聞いたからである。仲間同士打ち合わせたわけではないのだが、誰かいるんじゃないかと思って、出かけてみた。

あいにく、同期の男どもには出会えなかったが、サークルのOGたちに複数出会えた。なんで、彼女らがこんなに集まっていたかと言うと、なんでも、木村拓哉が主演して、山田洋次が監督した新しい映画「武士の一分」(いっぷんじゃないよ)の試写会が会場で催されるからだと言う。

その映画の入場整理券がすでに配り尽くされている事は、会場に着く前に、道の貼り紙で知っていたので、「まあ、いずれレンタルで見ればいいや」と言う気持ちでいたのだが、幸か不幸か、映画の始まる時間まで会場にいられないと言う人が出てきて、その人が私に入場券をくれると言う。丁寧にお礼を言い、受け取ったが、東京に来て、貴重な残り時間を映画を見るだけで過ごしてしまうのかと思うと、貰って良かったのかと思ってもいた。


というのもだ、おせっかいなメルマガのライターが、この映画の好ましからざる前評判を伝えてきていたからなのだ。ともあれ、もうこの会場で、他に知った顔にも出会えないだろうし、他のOGの彼女たちを一緒に見ることになった。

おせっかいなメルマガのライターは、木村拓哉の人気の翳りについても、私に予断を与えていてくれたので、彼の主演と言うだけで、そんなに人を集められるのだろうか?なんて、余計な心配までしてしまった。

ところが、私の余計な心配など無用とでも言うかのように、会場には大勢集まっていました。5年度ごとの卒業生の集まりのはずなのに、年度とは無関係な人や、ウチの大学とも無縁の人まで来るぐらいだったと言うわけです。いやいや、流石です。

その彼ですが、まあ、映画の中では、彼の持ち味を生かせていたとはいえません。たしかに、今までの彼のイメージからすれば、(酒田市周辺の)山形弁をゴニョゴニョと喋る視覚障害者で、その障害を得たせいで人生に躓き、苦しむなどと言う姿は見たくなかったと思った人も多かったのではないでしょうか。

だけど思うのです。彼も最早30歳。おそらくいつまでもカッコイイ人なのでしょうが、世の中は移ろい易いものです。より若い世代から、好男子が続々と輩出されている現実を前にして、今まで試みてこなかった新しい何かに挑戦してみたかったのではないでしょうか。とても好感の持てる挑戦でもあるし、本来、華のある役者さんです。末永く活躍して欲しくもあります。「まあ、頑張ってください」と私からも申し上げましょう。それに、彼が呟くようにセリフを言う芝居が多いのも、思えば山形弁を話すのには良かったのかもしれません。彼の従者役の笹野高史さんとの掛け合いも、絶妙とはいえないまでも無難にこなしていました。

それよりは映画全体のストーリーです。前評判なんか、とんでもない。一つ一つのセリフやシーンに重要な意味があり、とてもよい出来でした。詳しく書くとネタバレなのですが、色を変えて書いておきます。もう見てしまった人、私の見方で良いのか感想を書いてくれると嬉しいです。未だ見て無くても読んでみたいと思う人は、マウスをドラッグしてみてください。では、ここからです。



「武士の一分」の見所は、何と言っても終盤の決闘のシーンです。目の見えない主人公が、いかにして、新陰流免許皆伝の使い手を相手に勝利を得たのか?私と一緒に見た女性たちは、一様に斬り合いに関心がなかったので、話題にもなりませんでしたが、ここを理解できていないと、この映画を見た意味は何もありません。

この決闘のシーン、時間と場所を指定して申し込んだ1対1の果し合いの形を取っていますが、実は謀殺です。主人公は、見事に敵役の上役を嵌め込みました。

決闘の最中に風が吹いて、主人公が相手の気配を見失った後、卑怯にも敵役は目の見えない相手に対して、馬小屋の屋根の上から奇襲すると言う手段を使いますが、実はこれ、全て織り込み済みです。今風に言えば「想定内の出来事」なのです。そうなるように、相手に仕向けたのです。

主人公にも若さはありますし、通っている道場では、相当の使い手だったようですが、如何せん、眼が見えない以上、新陰流免許皆伝の相手にいささか分が悪い。その事は、道場の師範を相手に立ち合って模擬実戦をしたときに思い知らされます。師範は、「まず基本は切っ先を合わせて、相手の動きを逐一知る事だ」とばかりに「切っ先を離すな」と教えますが、すぐにそれだけでは絶対に勝てない事に気づき、それを試して教えます。実際、全く敵いませんでした。

諦めるように諭す師範に、主人公は「眼が見えぬということで、相手には必ずどこかに隙が出来るはずです」と、絶対の不利の中に唯一の勝機を見出している事を伝えます。

ところがあろう事か、次のシーンで主人公はその勝機を捨て去ります。従者・徳平に果し合いの申し込みに行かせた時に、「必ず伝えろ」と前置きしたうえで「眼が見えぬからといって、ゆめゆめ油断めさるな」と付け加えさせました。

本来ならば、油断してもらいたかった相手なのに、なぜそんな事を伝えたのでしょうか?

これ、言葉を文字通りに受け止めれば御人好しな忠告ですが、敢えて「自分に対して油断するな」と伝える事で、「油断していないお前でも、目の見えない私は勝てるのだよ」と言っているようなものなのです。聞いた途端に、相手の顔色が変わって、畏まって平身低頭しながらもメッセンジャー徳平の顔に、「かかった」という表情が浮かびます。

考えてみれば、敵役・島田にとって、これは益のない闘い、無視しても良かった果し合いの申し込みです。たとえ訴え出られても、随分と身分が違うのですから、もみ消す事も簡単だったはずです。それをさせないためと、さらに何重にも仕組んだ罠に嵌め込む用意が、この一言に込められていました。

前述のように、決闘の最中、突風が吹いて、主人公は相手の気配を感じるとこが出来なくなりました。絶対のピンチです。馬小屋を背に立つ主人公に対して、裏に回りこんでいく敵役。さて、ここで相手には2つの選択肢があります。そのまま、逆方向から出てきて斬りかかる手と、屋根に上って上から攻める手です。

幾分でも斬りかかる時の気配を消すためには、上からの方が意外性がありそうな気がします。そう読む事は、主人公もある程度は予想していたと思います。二者択一ですが、幾分上からの方に比重を置き、回り込んだ場合には、僅かながら早く気配を感じ取る事が出来るという作戦でしょうか?

では、相手が攻撃してくる方向は限定できたとして、タイミングはどうやって計ったのでしょうか?

答えは、道場での模擬実戦に出ています。何かを放り投げて物音を立て、そちらに注意が向いた瞬間を狙って、飛び掛ってくる。タイミングは、そこです。

そんなに簡単にいくものかとも思いますが、そこが「眼が見えぬということで、相手には必ずどこかに隙が出来るはず」という勝機に繋がっていくのです。前もって、言葉で絶対の不利を演出しておきながら、相手を嵌め込んでいるのです。そういえば、道場で師範が流派の極意を一説を語っていました。「必死、即ち活くるなり」と。

さらに言えば、決闘が始まる前、従者の徳平は、主人公に馬小屋の位置や川からの距離、空き地の広さ、藪の位置関係を事細かに説明していました。気配を絶つには、藪に入ることなど有得ないから、藪の説明のところで、主人公は徳平を追いやりました。考えてみれば奇妙なもので、大抵は決闘の場所は、広くて障害物の少ない場所を選ぶものです。馬小屋のある場所を選ぶと言うのは、敢えて馬小屋を相手に使わせる意図が窺えます。彼の立つ位置も絶妙です。馬小屋を背にして、回り込んでくるにはやや遠い位置から、殆ど動きません。つまり、場所選びの段階から、主人公は相手を嵌め込む計算をしていた事になります。

さて、ここでちょっと疑問が湧きました。主人公は、徳平に「もう帰ってよい」と命令しますが、徳平は主が心配で、馬小屋の後ろから様子を窺っていたのです。「脚本上のミスだろうか?」

というのは、こう考えたからです。

敵役は、気配を消したがっているわけで、もし、馬小屋の後ろで徳平と出会ってしまった場合、驚かれて位置を知られてしまいます。それは、一見、主人公側に有利に見えますが、作戦を変えられてしまう可能性が生じ、馬小屋を敢えて使わせると言う作戦を根底から覆しかねないミスになってしまいます。また、人質に取られてしまう可能性だってあったのです。徳平は、本当ならはるか後方の藪の中で見ていなければならないはずなのです。

ただまあ、良い方に解釈すれば、回り込もうとしたら徳兵がいるのに気がついたので、屋根に上らざるを得なくなったと考えるべきなのかもしれません。

とまあ、謀殺説を展開してきましたが、ここまで仕組んでも、主人公には決定的な不利があるのは否めません。しかも、敵役の侍が、これまた殺されて当然なくらい悪いヤツなのです。その点が、この謀殺を有理化しているのかもしれません。まあ謀殺ですが、見終わって、嫌な感じにはなりませんでした。よく練られた筋だと思います。原作を読んでみたくなりました。

こんなところです。