こんにゃく座の「フィガロの結婚」

先月の末に、私が見たのが「こんにゃく座」の「フィガロの結婚」というオペラ。まあ、オペラというぐらいだから、オーケストラをバックに豪華絢爛な衣装の歌い手たちという先入観があったのですが、それにしちゃあ、このパンフの絵のガウンに描かれた浮世絵風の柄は何なんだろう?と、疑問を抱きながら見に行ったわけです。

いやあ、先入観が木っ端微塵に吹っ飛ばされました。


「こんなに狭い会場のどこにオーケストラを入れるんだろう?」と思ってたのですが、楽団はナント「室内楽ティンパニー」というコンパクトな編成の上、ガムランの演奏者の衣装を着ています。当然歌い手たちの衣装もユニークで、フィガロたち民衆の衣装はバリ島の民族衣装でした。インドネシアは海洋国家ということで、メインとなる舞台装置は舟を輪切りにしたような形。これが、あたかもスノーボードハーフパイプのような感じで、歌い手たちが演技で派手に動き回るとき、ただ右往左往するだけではなく、立体的なスペクタクルを与えていました。さらに、フィガロの婚礼を祝う民衆の踊りは、ケチャック・ダンスというインドネシア趣味で統一したような舞台でした。

ここまでぶっ飛んだこだわり方をすると、当然、物語の筋との矛盾が出てきます。確かにそれはありましたが、ここまでぶっ飛んでいると、どこまでぶっ飛ぶのか期待したくなってしまいます。それに、インドネシアの民族衣装ってきれいなんですよね。それだけで、なんか嬉しくなっちゃう。

肝心の音楽の方ですが、室内楽+1の編成でも充分聞けるものなんですね。そもそも、オペラハウスのような巨大施設が存在しない日本の地方都市でオペラを見ようとすれば、室内楽+1で充分なんじゃないだろうか?とすら思えてしまう。無論、オーケストラとは迫力の点ではるかに劣るにしてもだけどね。

フィガロの結婚」は、原題をNozze di Figaroとある如く、イタリア語で歌われているものなのですが、わが町のような片田舎でやるのですから、当然の如く日本語で演ぜられました。

原作がボーマルシェというフランス人、台本がロレンツォ・ダ・ポンテというイタリア人が書いているのですが、この日の芝居では加藤直という人の翻訳と演出。できるだけ、モーツァルトらしくということなのでしょうか、ウンコやらオナラやらモーツァルトが好きそうな下品な言葉が並びます。

特に大笑いだったのが、伯爵夫人との示し合わせで、伯爵と偽りの逢引の約束を取り付けるスザンナが、洗い立てのシーツを取り込むのに変な巻き取り方をしていた。しかも、約束を取り付けた後、伯爵の傍にそれを置きっぱなしにしていくのだが、その巻き取り方たるや、まるでマンガなどで描かれるとぐろを巻いたウンコの様。偽の約束とも知らず、フィガロに一泡吹かせるチャンスと思った伯爵は、「フィガロなんかウンコのように踏み潰してやる」と力を込めて、ウンコ型に巻き上げられたシーツを踏み潰した場面である。

一応、オペラの形を取ったドタバタ喜劇なのだが、歌い手そのものはちゃんとした声楽を学んできた事が窺える人たちなのである。真面目な顔して「ウンコまみれの夜ぅ〜〜〜〜♪」とか練習しているのかと思うと、なんとも笑えるではないか。「でも、モーツァルトだから良いか」なんて、別にモーツァルトが台本や歌詞をこしらえたわけでもないのに思ってしまった。

しかも、この劇、わが町の演劇鑑賞会が選びに選んで持ってきた芝居なのだけど、そのせいか、観客の年齢層がかなり高い。本来ならば、こういうぶっ飛んだ台本や舞台設定、衣装には眉を顰めるタイプの人が多いのではないかと思うのだが、映画「アマデウス」のおかげか、帰りがけに呆然として感想をつぶやいていた老夫婦も「モーツァルトだから仕方ないか」なんて、ダ・ポンテの台本をモーツァルト的にしてしまった訳者・演出者の確信犯に、みんな煙に巻かれていたようだった。

そういった意味でも、このオペラと言うか芝居は自分の常識もぶっ飛ばすパワーを持っていたと思う。