ヒーローとライバル


全国高校サッカーの決勝戦は、盛岡商業作陽学園を逆転で破り、岩手県勢初の優勝旗を手にした。岩手県小笠原満男という国内屈指の名選手を生み出しながら、全国大会では結果を出せずにいた。全国大会では、長い間、九州勢や東京・千葉・静岡に牛耳られており、サッカー文化の浸透にも地域格差が存在する事が言われていた。

それが、昨年の野洲高校に続き、今年のこの盛岡商の優勝となり、地域格差もそろそろ薄れてきたのではないかと言う期待が出てきたようにも思える。とはいえ、我が新潟県勢は、今年も未だ結果を残せていない。アルビレックス新潟には、新潟出身の選手も少しはいるが、殆どが県外出身者の集合である。まだ、我が新潟にサッカー文化が深く浸透しているとはいえまい。

ところで、アスリートたちには、試合中の姿だけではなくて、当然ながら私生活も存在する。サッカーのように各チーム11人の先発メンバーに3人までのサブの選手、さらに監督までのエピソードを集めると、この日の決勝戦だけでも、30人からの私生活がメディアに取材される事になる。まあ、30人からの人間が取材対象になれば、人の興味を引く話題の一つや二つが出てきても不思議ではない。

そういうときにメディアが好みそうなエピソードと言えば、不幸や病気を乗り越えて戦うエピソードなんかがそうだろう。この日、しきりに取り上げられたのが、盛岡商の斎藤監督の病気のエピソードだった。

喉頭がんの宣告を受け、できるだけ多くの部分を切除する事を奨められながら、声が出なくては、選手たちに充分な指導が出来ないから、少しでも声帯の多くの部分を残して手術をしてくれる医師を探し出して手術を受け、さらには、大会直前には心臓の緊急手術まで受けて、肋骨は未だくっついていない状態だと言う。準決勝直後のインタビューなどは、声を聞くだに痛々しくてたまらなかった。選手も「身を削ってまで指導してくれる監督の情熱に、何とか報いなくては」と、気持ちを一つにしていく様子が窺える。これが、視聴者に訴えるには、格好な材料となり、実況のアナウンサーもしきりに強調する。

「それじゃあ、相手方には、そういうものは何もないの?」って思って聞いていると、作陽のサッカー部はかつては不良の溜まり場という「スクール・ウォーズ」風のエピソードが用意されていた。でも、よく聞くと、その頃とは世代交代が完全に済んでいたようで、盛岡商の監督のネタに較べて、ちょっと強調材料としては弱そうだったらしく、やや控えめに語られていた。

日本のスポーツマンガのヒーローの設定を考えてみると、何らかの不幸を背負いながら戦い続けたヒーローたちが多い。梶原一騎以前にもスポーツヒーローマンガは存在したが、梶原一騎全盛の時代に、そのスタイルは確立したと言ってよいだろう。彼が好んで使ったのが、貧困と非行である。彼の代表作「巨人の星」「明日のジョー」を見れば、前者が貧困、後者が非行の設定をされたヒーローである。(「明日のジョー」は、原作者のストーリーを使えないと思ったちばてつやが徹底的に変えてしまったため、梶原の名は使われず、高森朝雄で発表されている)

ライバルは、たいていの場合、お金持ちか孤高の天才と言う事なのだが、改めて考えてみると、天才と言う事に関して言えば、ろくに練習や指導も受けないでも短期間で上達していく主人公も、天才と言えば天才なのだ。しかも、ライバルは孤高の人なのに、主人公の場合は貧しい代わりに、支援者(父親・友人・師匠など)に恵まれるのだ。

そう思うと、スポーツヒーローマンガの主人公は、決して恵まれていない人々ではない。ライバルの方こそ、恵まれていないケースもままある。というか、マンガは「お金じゃないよ、人間関係こそ大事だよ」と強調したいのかもしれない。

時代がバブルの頃になると、これらの設定はかなり崩れてくる。貧乏人が少なくなったせいか、「柔道部物語」の主人公は貧乏人ではない。むしろライバルの方が、貧困や非行で屈折している。小山ゆうの「スプリンター」の場合は、主人公はS財閥を連想させる家庭環境に育ち(生まれは別らしい)、それらを全て投げ打って、100m走という極単純な力比べの世界へと挑んでいくという、なんか「指輪物語」みたいだ。

それが、日本が失われた10年を経て、小泉改革の後、経済格差が顕著になってくると、スポーツヒーローマンガの主人公は再び貧乏に設定されてきたように思う。「Capeta」というカートというF1レースへの登竜門となる乗り物でのレースに挑む少年の活躍を描く話を例に取ると、主人公に母親は無く、家族は労務者の父親だけである。決して裕福ではない。ただ、父は星一徹のようにスパルタではなく、温かく見守るタイプである。ただし、「カート貧乏」と言う言葉がその業界のあるように、よほど経済環境が豊でないとカートの大会で勝ち抜く事が出来ない。お金の有る無しが、直接成績の良し悪しに繋がると言ってよい。

例によって、お金の無い主人公は、人間関係にだけは恵まれる。カペタ(勝平太)を支援するために、モデルになる決心をしたGFのモナミちゃんは、カペタのライバル源奈臣に「アンタなんか、恵まれてるのよ!いっぺん、クラッシュでもしてみるといいんだわ」と毒づいてしまった。たしかに、源君のお母上は形成外科医で収入は多く、カートの初期の段階ではこのお母上の経済状態に依存した部分は多いように思えるが、高校に進学してからの源君は、自らスポンサー企業の社長や担当者に面会を求め、自分の現在の成績とその結果の分析を逐一報告して回るほどのマメさを見せるという、決して、親に依存しているだけのボンボンではないのである。

女性には多いタイプなのだろうか?こういうの。仮想敵を創出し、徹底的に敵意を燃やす事でモチベーションを高めるタイプって。しかも、充分に事実関係を把握しないまま、そう思い込んでしまう事、そのものを生きがいにしている人間。

だけど、人それぞれに勝ちたい事情はあるのだ。しかも、恵まれた環境にあるからといって、常に万全な状態とは限らない。恵まれているからと言って、モナミちゃんのように、不当な言いがかりを吹っかけてくるヤツもいるし、目立っているからと、いじめの対象になるヤツもいる。そういう意味では、天才と言うのは、たいていの場合、孤独なのであろう。

そういえば、「巨人の星」のライバル花形も、子供の頃にはいじめにあっていたことを飛雄馬の姉・明子に告げていたのを思い出した。あまり、そういう事をおおっぴらにするのは如何なものかなとも思うのだけどね。スポーツは、そういった事情など無視する形で、有る意味公平に、有る意味不公平に、同じ環境で戦う事をルールとするわけだが、メディアはその背後にある人間臭い部分にこそ、ニュース・ヴァリューがあるのではと暴き出そうとする。それに、見るほうも好きだからね、そういうことって。

ただ願わくは、片方だけを一方的に持ち上げないようにはして欲しいものだと思うのだ。