言葉を交流の中で育てる

私が参加している多言語交流サークルでは、「言葉を学ぶ」という言葉を使わない。「言葉を交流の中で育てる」という言い方をする。


特に障害というものが無ければ、小学校に入る以前に、生活に必要な言語を使える能力は身に付くものである。つまり、その基本的なコミュニケーション能力というものは、学んだのではなくて、親兄弟友人たちとの人付き合いの中で、自然に身に着けてしまったのである。

それは母国語以外でも不可能ではなく、世界には複数の言語を習う事無く使える様になっている人たちが、たくさんいるのである。よく言われるのは、インドやアフリカなどの地域が良い例で、アフリカの現地で使われている言葉には、書き言葉さえないものまである訳で、そういった言語を使えるようになるために、彼らが教室で教師が板書したものをノートに取るとか、文法を学ぶなどという事は、ちょっと考えられない。

むろん、言葉の使い方にはなんらかの規則性があり、それらの言語にも、文法は存在するのだろうけど、使っている人たちには、おそらく意識される事は無いという意味で言っている事を付け加えておきたい。

そういう人たちが日本に来ると、実に速やかに、流暢な日本語を使えるようになっていくことを、我々の交流サークルの交流体験記が伝えている。

そこで、我々のサークルを始めた人たちは、自分たちの回りに多言語が使われる環境を作ろうと考えたのである。手っ取り早い方法として、カセットやCDで同じ内容を多言語で収録したものを徹底的に聞き込んだ上で、それを真似るという手段を考え出したのだ。

とはいえ、30数章程度しかない薄っぺらなテキストの内容を録音したものだから、各言語の全てを完璧に網羅するわけにはいかない。そこで、海外にホームステイに行ったり、逆に受け入れたりしながら、断続的ながらも、それらの言葉を育てる機会を創り出したのである。

これが意外に効果的だったのだろう。交流の様々な場面で、「ああ、CDのあの場面で使われている言葉が、自然に出てきた」などということが発端となって、さらに奥深い交流へと繋がっていったというのである。

とはいえ、世界中にある言語は、実に多様である。ストーリーCDが作られていない言語を使う人たちが、交流にやってくるという事が良くある。また、台湾語や広東語のように、言語として確かに存在するのだけど、北京語の普及があまりにも急速で、対外的には徐々に使われなくなりつつある言葉もある。

そんな人たちと交流する場合、よほどマニアックにその言語を覚えようとでもしていない限り、スムースな会話をするというわけにはいかない。お互いに、殆どが片言の英語でのやり取りという事もある。そんな時でも、ほんの一言でも相手の国の言葉を使ってやると、その時の反応たるや、「相好を崩す」という表現が将にぴったりとハマるのである。

先週末の土曜日、我々は浦佐にある国際大学の留学生たちのホームステイ受け入れ歓迎パーティーを開いた。Lさん宅にステイしたミャンマーのお嬢さんは、パーティー会場に来るまでに、Lさん宅でお国の料理の腕を振るい、パーティー会場に持参した。言い忘れたが、パーティーの料理は、持ち寄りである。

私に、ちょっと酸味のあるスープを奨めたそのお嬢さんに、ミャンマー語で唯一知っている言葉「ヤラシデー」(美味しい)と伝えた瞬間、殆ど身悶えするかのような喜びようの反応だった。

国際交流などというと、英語をぺらぺらと駆使して、全てのコミュニケーションに問題無しで無ければならないかの先入観があったが、事、日本国内で行われる場合においては、こんな調子でも充分なんだなと思った。(でも、それで終わって良いと思ってるわけじゃないよ)