全体から部分へ

最近は通信速度が上がったせいか、各サイトの画像が表示されるときの送信方法が端から順番に棒グラフが伸びていくように表示されていく。

ネットへの通信側語がものすごく遅かったころは、ものすごく粗いモザイクが最初に表示され、それが徐々に細かいモザイクになり、最後には完ぺきな画素数の画像になっていくサイトもあったのだ。

何をどうすれば、そういう表示になるのかわからないまま、現在の高速通信の時代になってしまったけど、あの粗っぽいモザイクが形になっていく過程って、見ている立場の側からも初期の粗っぽいうちから大方の予想が付いていたように思う。

Hippoの言語習得方法も、部分を完ぺきにしていく方法ではなく、最初は全体の概要を大雑把に捉えて、次第に細部を切れ込ませていく方法が奨励されている。(逐語逐語、丸暗記という方法が禁止されているわけではないのです)

大阪で活動している正親町ソレイユ・ファミリーのHPで、この状況を実によく説明しているコンテンツがあったので、リンクを表示しておこう。

正親町ソレイユ・ファミリーのHP

私の場合、Hippoのやり方を説明するときは、「言葉をうたう」というHippo独特の言い方があるように、初めて出会った歌を歌う時のことを連想する。

「初めて出会った歌」の歌詞だけを手渡されて歌える人っていませんよね。仮に楽譜を渡されても、楽譜を読めるのなんて限られた人ばかり、何らかの形で音源を手に入れて聞ければ、簡単に歌えるものです。

これが音楽家を目指す人なら、楽譜が読めるというのは、職業上必要な技術ですし、安易に他人の奏でた音源に手を伸ばすことは、物まねにつながり、避けるべきなのでしょうが、効率的に言語を習得したいと思う人なら、この物まねの効用を見逃すべきではありません。

音源から聞こえてくる言語特有の抑揚と強弱をメロディーとして覚えるのが効率的というわけです。

それに、アルファベットならまだ読めるでしょうが、世の中、アルファベットだけが書き言葉ではありません。ハングルやキリル文字こそ、最近読めるようになってきましたが、タイ語ヒンディ語アラビア語の文字を目の前にすると、これを読むには、膨大な時間が必要とされることが予想され、読んで覚えることは効率的とは思えない。

そうなると、耳が頼りだよということになる。

また、アフリカの地に初めてステイに行った人などは、文字の無い言語に接する人も少なくない。これでは、テキストの頼る手段はお手上げである。

ところが、そういう地域から日本に来た人はといえば、実に短期間で大雑把ながらも基本的な日本語をものにしていくのだ。

日本人には難しいと思う人もいるだろうが、これが全然違う。公園で一緒に遊んでいるだけで、言葉が感染ってしまう子もいる。

だが、考えてみれば、我々ほとんどの日本人も誰に習うでもなく、小学校に入る前に基本的な日本語を話せるようになっていたことに気がつく。

つまり、その環境と必要さえあれば、誰でも話せるようになるというのが、Hippoの基本的な考え方だ。

だから、講師なんか要らない。そう大胆に言い切ってしまったことが、過去のhippoにはある。そのせいで、多くの会員を一気に失ってしまったらしい。

今考えれば、たしかに講師が居ようが居まいが、自分でコミュニケーションをとっていこうという意思がなければ、話せるはずがない。

Hippoには講師が居ない代わりに、コミュニケーションを取りたくなるような様々な工夫が、長い年月のうちにたくさん蓄積されている。

長くなったので、それについては、後日また。