昔見た映画から

昔見た映画・チャールトン・ヘストン主演の「十戒」。
映画の終盤で、モーゼを演じるヘストンが、「自分は昔、水のことで神の言葉に従わなかったことがあるから、多分この川は渡れないだろう」と後継者のヨシュアユダヤの民を委ねて、自らは死の床に伏して、一行が川を渡るのを見届けるシーンがあります。

このシーンは、後年「ポセイドン・アドヴェンチャー」でも引用されます。転覆した豪華客船ポセイドン号の構造に異様に詳しい少年から聞いた言葉を「神の声」と信じ、ラウンジから船体最後尾にして最下部(この場合転覆してるので最上部)のスクリュー付近を目指します。様々な意見の対立を乗り越えて自分に従ってきた人を何人も死なせてしまった牧師は、もうちょっとで出口にたどりつこうとしたときに、またも巨大ボイラーから洩れる水蒸気の障害が行く手を阻んでいることに気が付きます。多くの命を失ったことに責任を感じた牧師は、残り少ない生存者の先導を自分と事あるごとに対立してきた警察官に委ね、自らは体力の限界を感じながらも、空中にせり出したバルブのハンドルに飛びつき、噴き出す蒸気を止めた後、力尽きてしまいます。

私は、自らを無神論者と宣言したことはありません。ごく一般的な日本人の宗教観をもった人間だと思います。普段は神とは無縁の暮らしをしているくせに、苦しい時は神頼み(神道)をし、死者は仏教で弔い、クリスマスの時はキリスト教の習慣を存分に楽しみます。イスラム教徒には寛容ですし、ユダヤ教徒の過去の苦境には同情申し上げ、ああいう差別があってはならんとは思うものの、最近のパレスチナ人に対する彼らの仕打ちはなんなのさ?と感じています。また、マインドコントロールをしようとしたり、多額の布施を要求する新興宗教には敵意と嫌悪を抱きます。

そんな私なのに、というかそんな私だからこそ、なぜか水というものに悩まされます。神の言葉に従わなかったと言えば、そんなこともあったかもしれませんが、特別に水が介在しているわけではありません。ごく一般的な日本人らしく、神に従ってたり、従わなかったりしてきた人間です。

以前からここで書いてきている水道工事が、連休明けを待って、始動しようとしています。今日は、その件での打ち合わせが、朝から何回もありました。店を閉めてからというもの、普段は店にいても何もすることがありません。そこで、3階にいると、来訪者がチャイムを鳴らしてきます。こんな閉店してしまった店にでも、結構来訪者が後を絶たないのです。

その度に、私は1階まで下りてゆき、要件を確認し、応対したり、母に取り次いだりします。5・10日の集金日の日に、そういうことが多いのですが、今日5月7日は、連休明けで給与所得者が一斉に働き始めたので、その一部はウチのようなところにもやってきます。水道工事の打ち合わせも、連休明けを狙ってきました。飯を食いかけている時、トイレで便器に腰かけている時、PCのソリテアゲームが、もうじき、終わろうとしている時やその面をクリアする重要なヒントに気付いた時などに、チャイムが鳴り、来訪者に対応しなければなりません。

「チャイムではなくて、ドアフォンにすれば、下まで降りていかなくてすむよ」と電話機を導入した業者のにさんざん勧められましたが、閉店からこれまでの出費が目白押しの今日この頃、この先、急に金が必要になるかもしれません。」ドアフォンは丁重にお断り申し上げました。

しかしこの日、一番悩ませたのが、最後に来た水道業者が水道局に申請書を出すために各部屋の寸法と水道の蛇口の位置を調らべたいと言ってきたこと。これがまた、時間をかけて事細かに採寸するので、周りで見ていて辟易しました。建物全部の部屋の寸法を調べたかった様ですが、3階にはあまり見られたくない部屋があり、なんとか問診みたいなことだけに済ませました。

それにしても、なんでこんなに水道のひかれていない部屋の寸法まで必要なんだろうか?こういうところからして、私は水に悩まされているのかもしれません。