美しい終焉

最近、スポーツのことで書き込むといえば、サッカーか競馬だったのだが、今日は高校野球について書かねばならないだろう。新潟県代表チーム・日本文理新潟が演じた大健闘というやつだ。所詮は勝てなかった試合のことではないかと思われるかもしれないが、力の差はあったにもかかわらず、あそこまで粘りを見せた彼らを讃えねばならないだろう。

思い返せば、サッカーJ2アルビレックス新潟が優勝を果たし、J1昇格を決めた試合の後、わが新潟が「スポーツ不毛の地」という言葉を、あらゆるメディアから浴びせられた屈辱は忘れられない人も多いと思う。「サッカー不毛の地」と言われれば、「そういえばサッカーの強い学校もなかったし、仕方ないね」と思うのだが、「スポーツ不毛の地」と言われれば、他の全てのスポーツ選手の実績が否定されたことになる。

オリンピック体操個人総合2連覇した選手も、オリンピックで銅メダルを取った柔道選手も、相撲協会会長まで務めた元名大関も、女子選手としては初めてアルペン競技で入賞を果たした選手までも輩出しているにもかかわらず、高校野球などのメジャースポーツでの活躍がないばかりに、「スポーツ不毛の地」と言われた続けた屈辱の日々であったわけだが、とにかく我々は彼らに屈辱の日々を晴らしてもらったことになる。

そんな試合を振り返ってみると、幾つかの偶然と相手のミスや驕りが積み重なっていることに気が付く。まず一つ目の偶然は、堂林という今大会屈指の打者であるにもかかわらず、投手としては彼よりもすぐれた投手が、今大会はずいぶんいたと思う。その彼には、拭い去れなかったトラウマがあったのである。春の選抜大会で、9回2アウトまで取りながら、、逆転負けしたトラウマだからたまらない。

この試合に先発した堂林は、先制の2ラン本塁打を放ちながらも、投手としては精彩を欠き、後輩の森本にマウンドを譲り、右翼のポジションに退いていたのだ。森本は、2失点したものの、要所をきちんと押さえており、最終回は6点のリードをもらって、悠々と優勝投手となるはずだった。

ところが、中京大中京の監督は、堂林にチームの功労者としての花を持たせようと思い、優勝投手となるべく、彼をマウンドに立たせたのである。「選抜のトラウマ」については、気が付いていたのかどうかは知らないが、この采配、そういう事情がなくとも疑問である。

ピッチングというのは、繰り返されるリズムから生み出されるものなのだ。一度外野に退いた選手に、投手としてマウンドに立てというのは、甲子園の決勝の大舞台でやるのは、あまりに大きな賭けだ。無論例外はある。桑田・清原を擁したPL学園に勝利した取手二高の例であるが、このときは同じイニングのうちに、外野からマウンドに戻している。この試合のように、数イニングを経てから戻ったわけではない。同じイニング内でも大きな賭けなのに、こういうことをしてきたというのは、6点リードと下位打線から始まる日本文理のことを舐めていたとしか言いようがない。もう一つ、忘れられがちなのは、マウンドから降ろされた森本の気持ちである。

そんな時、6点負けているチームの監督なら、どう考えるんだろう?まあ、こんな舐めた態度を取られたら、私なら「この二流投手だけでも、もう一度マウンドから引きずり降ろしてやろうぜ」ってな発破をかけるかもしれない。そして、それに応じる連中は多いだろうと思う。

ところがこの「二流投手」から下位打線の2人で、簡単に2アウトを取られてしまった。相手の采配ミスには気がついたかもしれないが、「選抜のトラウマ」までは思い至っていないと思う。しかも、1番切手は好打者ながらも、この試合に限っては完全に抑え込まれていた。でも、1番打者の資質というのは、打つだけではない。粘って玉数を投げさせたり、四球を選ぶのも重要な資質である。少なからぬ玉数を投げさせて歩かせた選手の後には、今日大当たりで本塁打まで打たれた選手が控えている。驕りから生まれた小さな穴が大きな穴になりかけている。それに気づいたのは、彼に三塁打された後だったのだろう。

さて、ここで2つ目の偶然が起きた。私はバカバカしい高校野球独特のルールだと思うのだが、「守りのタイム」が9イニングのうちに3回しか許されていないのである。一つの言葉、一つのタイムで、選手は冷静さを取り戻したり、甦ったりするのに、それが3回までしか許されていないのだ。

甲子園の決勝だぞ!今まで幾多の好ゲームが、こういうタイムによって作り上げられてきたのを、高野連は忘れたのだろうか?つい2年ほど前の早実駒大苫小牧の試合だって、「守りのタイム」というのは、それほど見苦しいものではないだろうに。

とにかく、今大会、最も多くのヒットを打っている選手を前に、中京大中京の選手たちはマウンドに集まり、打者勝負の意思を確認した。そして、そのあとはタイムを取れなくなったのである。捕手がサイン確認することも、一塁手が声をかけてやることもできない。こんなルール、即刻止めるべきだと思うが、このときは日本文理打線に味方した。

さんざん粘られたうえに、守りの連携のほころびまで見せてしまった。フラフラっと上がったファールフライを見て、新潟側のどの人も、「万事休す!」と思ったはずだが、本来取りに行かねばならない三塁手は、ボールを見失っていた捕手と同じ場所に向かってしまった。全く見当違いの場所にボールは落ち、場内は大きくどよめいた。多くの人が、「助かった」というよりも、中京の選手たちの集中力が切れかかっていることに気付いたのだと思う。しかも、その他者に右翼線に2塁打された後、次の打者には死球を与えてしまっては、もう隠しようはない。

監督は、自分の采配ミスを認めるように、堂林と森本の交代を命じた。この大ピンチにマウンドに上がる2年生投手にも、例のルールのために、誰も声をかけてやれないのだ。しかも、テンポ良く投げて押さえてきたときとは違って、すっかり相手のペースになり、自分のリズムはめちゃくちゃな状態だ。だから、ストライクは入らない。四球で満塁になり、本塁打で同点の場面になった。

打者は6番・投手・伊藤。不敵な表情で、ベンチ前でキャッチボールを繰り返し、堂林にプレッシャーを与え続けた男が打席に立つ。それでも中京の森本はなかなかの投手だと思う。前の打者には制球を乱しながらも、伊藤に対しては制球を取り戻し、ストライクを先行させ追い込んでしまう。だが、勢いは日本文理のものである。追い込んでも討ち取れない。粘られた揚句に、2点タイムリーヒットを打たれてしまう。驕りから生まれた小さな穴は、すでに大きな穴になっている。続く選手にもタイムリーを打たれて1点差。同点どころか、逆転の芽も見えてきてしまった。

しかし、気まぐれな勝利の女神は、伊藤投手の小学校以来の親友にやさしくなかった。彼の放った打球は、猛烈なライナーながらも、3塁手のグラブに吸い込まれた。あっけないといえば、あっけないが、ある意味これは美しい終焉だったかもしれない。むろん、勝って帰れば、もっと美しかったかもしれないが、この強烈なライナーで終わったことで、誰のエラーで勝ち負けしたわけでもない試合となったのだ。

勝った選手に安堵の涙があり、負けた選手に満足した笑みがあったのは、そのせいだったと思う。2アウト取られていたのであるから、いつかは途切れるのだという予感が誰にもあったと思う。それでも、堂林クンには、「プロに進んで、日本を代表する投手ではなく、大打者に成長してもらいたい」と、「自分たちに舐めた態度をとった相手チームの監督の采配」に対しては、「一寸の虫にも五分の魂」の自分たちのメッセージを突き付けることができたと感じたのではないだろうか?そういう意味で、これは、美しい終焉だったのだ。