量子力学と枝豆問答

昨日は、量力の輪読会ということだったが、みんなもう、何度も読んでしまったらしく、それでも理解はなかなか深まらず、お互いの疑問や考察をぶつけ合いながら、多少とも理解の深いレゴラス君がそれに答えていく形になった。

まあ、お茶会みたいなのだから、何かツマミになるものがあったらいいだろうと思い、拵えたのがピスタチオの燻製と枝豆のペペロンチーノ風だった。

ピスタチオの燻製は、以前に作ったことがあった。その時は、薫煙剤の一つ、ザラメを入れ忘れたので、一度入れたものをキチンと正調で作ってみたかった。結果、自分の好みは、ザラメを入れない方だった。ただ、人によってはこのほんのりとした上品な甘みが好きだという人もいた。

もう一品の枝豆のペペロンチーノ風は、以前、雑誌で見かけたもので、絶対ビールに合うと確信していたものだった。そして、これを19日のウェルカム・パーティーに作っていくつもりだったのだが、彼岸の入りの日だということに気がつかずに、ゆっくり出かけていったら、朝一番で売り切れていたという。そう、この地域では、彼岸の入りの日に大量の食料品が売れ、そこからしばらく食料品が売れない日が続くのである。

だから、19日には断念したものの、この日には絶対に枝豆が買えるという確信があった。

作ってみて思ったのだが、確かに枝豆よりは手間がかかるのだ。でも、もともと茹であがったものに、香りづけしたオリーブ油を絡ませるだけなので、そんなに大変な作業ではない。それなのに、みんなこれをしようとしないのは、やはり香りづけに使用するニンニクのにおいと、食べた後に手が油まみれになるせいだろう。赤唐辛子も入ってるので、この状態で目なんて擦ろうものなら、最悪な事態に陥る。お邪魔するパールちゃん宅では、布巾を出してもらったが、自分で濡れティッシュも用意して行った。

量力の話が難しいのには、いろんな理由があるだろうけど、まず第一は、物理学を基礎から順番に学んでいって、最終的に到達せねばならないところなのに、我々のやっていることは、一気にヘリコプターで山頂に到達するような行為だからだろう。高度障害で死にそうになります。

それから、著名な学者たちがさんざん苦労して研究したり、相手を傷つけるほどの討論をしながらも、最終的結論は、見ることもできなければ、正確な量子の振る舞いのことはわからないとなってしまうから、その徒労感と、キツネにつままれた様な変な気持ちに陥り、雲がすっきり晴れ渡るような感じがしないせいだろう。

そのくせ、話している内容は「不確定性原理とは…」とか、「量子の振る舞いというのは、位置と運動量……」などと、いかにも偉そうな言葉ばかり並ぶので、ファミレスなどで話していると、ウェイトレスが皿を下げにきたときなどは、ちょっと気恥ずかしい。

だから今日の集まりなども、メンバーが口々に言うのは、「高校時代、物理赤点だった…」みたいな話。もっとも、理解の深そうなレゴラス君まで、物質内にある電子の振る舞いの理由が分からず、そこから先に進めなかったなんて話になって、結局我々全員が枝豆を食いながら、艪も舵もない船に乗っているような気がしてきた。

そこで、この「艪も舵もない船」という表現が、中学の国語の時の「蘭学事始め」に出てきた表現だったことを思い出した。フルヘッヘンドという言葉の意味がわからなかったのに、庭に集められた木の葉の山を見ているうちに、「うず高くなっている」という意味に気がついたエピソードが印象的だった。

気がつくと自分たちは、難解な物理学の理論を自分の得意な分野や卑近な体験になぞらえて理解しようと努力している。(努力の多くは実っていない)物理学の理論は、数学や論理学の言葉を使って描かれていて、それが我々のちっぽけな脳みそを悩ませている。

そこで、多少なりとも、頭の働く分野での言葉に変換をしようという訳だ。杉田玄白前野良沢も、異文化を持つオランダ人の綴った医学書を自分たちの身の回りの出来事を利用できないと思って苦労していたのだと思う。そしてそれは、「人麻呂の暗号」を書いたHippoの先達が、「万葉仮名で書かれた万葉集を、古代朝鮮語ではなく、現代韓国語で解読する愚を犯している」と批判されようとも、その方が理解しやすいと思ったことに似ている。それは、ごく自然な思考法で、多少の不正確さはあるものの、大筋で間違った方向に進んでいるわけではない。すべての人類の「違いの部分」ではなく、「同じ部分」を見出そうとするアプローチであると、Hippoの連中は思っているわけです。

新しく出会う言葉は、今まで自分が持っていなかった概念を持った人たちの言葉であるが、同時に同じ概念の部分も持っていることに、やがて気がつく。その同じ部分を手掛かりに、理解できる部分を増やしていこうと、話し合う。だから、言葉は学ぶのではなく、交流の中で育てられるのであると思います。

わからない連中同士で話し合っている時、「ふと今、正しい方向に踏み出した」と感じることがあります。物を見て認識することが、光を媒介させて、反射した光を見ているのであるならば、電子のように小さいものを見ることはできないと知った物理学者たちは、激しく議論をしあいました。粒子に光を当てる代わりに、お互いに言葉のシャワーを浴びせあいました。それでも相変わらず、電子は見えないし、物質の最小単位はクオークであると言いながら、それは謎だらけの粒子です。とはいえ、話し合う以前とは、わからないながらも前進していたのでしょう。

その時ふと思い出した言葉がありました。「完璧な日本語や、外国語なんて、誰にも話せないんだよ」とか「交流に行くための完璧な準備なんて、誰にも出来ないんだよ」というやつ。それでも、交流に行った連中は、何となくだけど、相手の言うことを理解して帰ってくるんだよなと思った。

「艪も舵もない」「五里霧中」の船出をしている我々の話し合いは、船頭多くしてアララット山にでも行きつくのだろうか?移動しながらも何かをつかみながら。